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zoom RSS 若宮八幡宮物語 ―掛けまくも畏き若宮八幡宮大神、我等向山部落の民、一同を守り給へ―

<<   作成日時 : 2012/08/29 22:28   >>

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この物語は「おいらせむかしっこの会」矢崎ゆりさんが、向山町内会の成田いつ子さんや若宮八幡宮建設に携わった向山長老からの聞き取りを元に、若宮八幡宮再建に熱い思いを注いだ先人の姿を物語化した、壮大なドラマである(原文のまま掲載)。


若宮八幡宮物語

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 「ああ、今年も神社のサクラ、よく咲いたなあ。部落の人達みんなで、世話したかいがあった。八幡様も喜んで、桜、眺めているべなあ」
 恒三郎じっちゃは、八幡様の境内の草わらさ腰おろして、一服しながら満開の桜の花、見上げでいだった。
 「じっちゃ、町内の花見、始まるってよ。じっちゃ来て、昔の話こ教えでけねば、花見、始められねってよ」と、ひ孫が迎えに来た。恒三郎じっちゃは「よいしょ」って腰あげで、部落の人達の輪さ入っていき、この若宮八幡宮神社を造る時に、一緒に苦労した部落の人達の顔ば眺めながら、ゆったりと話し始めだ。みんな年とったども、元気でニコニコしながら、恒三郎じっちゃの話さ、耳かだむげだ。何回聞いでも、「いい話こ」だど、思っているから、みんなも杯片手にじっちゃの「昔こ」を喜んで聞いだ。
 「むがし、むがし、そんだなぁ、向山さ、こったね、人も住んでいねがった頃。その頃の向山は、広い広い沢だった。下田を流れている奥入瀬川の北の岸の辺りを南北に分けているのが「後谷地」。東西さ六キロも広がる広いヤチだ。この「後谷地」から、今の向山駅の北まで続く広い広い土地が「向山」と呼ばれでいだ。その広い広い沢地の中に、「豊(とよ)」と「豊原(とよはら)」という村がぽつんとぽつんとあった。「向山」ず集落はまだねがったのよ。そんでも何件かの家があったんだよ。その中におら家(え)のご先祖さまの家(え)こもあったんだって、爺様、その頃、山仕事で広い向山の沢さ入ること、何回もあったじ。木ノ下の西の方には「気比神社」があった。この神社は「馬の神様」としても有名で、今でも近郷近在から多くの信者が集まり、「向山駅」は気比神社さお参りに行く人のために建てられた駅だと言われたこともあったのよ。その事はさておいで、おら家(え)の爺様、山仕事から帰る時には、気比神社に寄って、「今日も、無事仕事終われした。有難うございます」って、拝んで帰るんだって。へでもなぁ、あんまり遠回りだから、おら方にも「守り神様」があれば、なんぼが、有難でだがなぁって、いつも思っていだず。

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 ある年の秋、爺様、山仕事終えで、「秋の日はつるべ落どしだから、あまり暗くならねぇうちに帰るが」って、急いで林ば抜けて、今のカワヨのあだりがら、向山の方さ、山の斜面ばセッセど登って来た。ちょうど、今の八幡様の近くあたりさきたら、雨、降ってきたず。
 「ああ、困ったな。少しでも早く帰るべど思って、今まで通ったごどねぇ山道ば来たら、雨、降ってきたじゃ。あの木の下で雨宿りして行ぐが」
 爺様、独り言しゃべりながら、大きな木の下さ入ったず。
 「なんだば、これは・・・」爺様、驚いだのも無理はない。大きな木の下には、お地蔵様みたいなまぁるい大きな石が立っていだった。そして、その傍には、誰かが供えたらしい杯と、野原さ咲いているオミナエシの花が置かれていだった。爺様、思わず、土の上さ膝こついで、両手を合わせで、「これはこれは、石神さま。ここさ、お出でになっていだったんですか。今まで気がつかなくて、申し訳ありませんでした。これからは、毎日のようにお参りさせて下さい」って拝んだず。これはきっと、おら達の「守り神様」の「お姿」に違いないと思ったず。
 それがらずもの、爺様、仕事の行き帰りに、石神様にお参りし、仕事が無い時は、石神様の周りの草取りしたり、掃除したり、何かあれば御神酒ばあげで、うやまったど。そのうちに、爺様の話こ聞いて他の人達もお参りするようになったず。

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 秋の長雨が何日も続いだ時があった。あんまり続いだので、爺様も、石神様ば気にかけでいだったども、行がながったず。そしたらある晩、爺様、石神様、ずぶ濡れで黙って立っている夢ば見たんだど。
 「石神様、申し訳ねぇ事しましたじゃ。俺だぢばっがり、ヌグヌグど、くらしていで雨や風のあだる屋根もねぇ所さ、石神様ば置いで、申し訳ありませんでした」
 爺様、神様さ謝って、石神様さ、屋根かけたお堂ば造ろうと思ったんど。それからずもの、爺様、家から木ば運んだり、山から木、切ってきて、石神様ば祀るお堂を作りはじめだず。そのうちに向山の人達も手伝って、仕事するようになったんだず。小さいお堂が出来上がった時は、みんなで石神様を拝み、御神酒ば上げで喜んだ。それからずもの部落の人達「おらだぢの守り神様」だって、何かあるたんびにお参りするようになったんだど。それでもなぁ、長年たつうぢにお堂も古くなり、あちこち壊れだり、雨漏りするようになってきたんだど。そのたんびに、爺様は神様さ供えられた酒のビンば酒屋さ持って行って、銭コど取り換えで来ては修理代にして、壊れだどご直し続けできたず。当時は一升ビン一本二十円だったず。その銭コためで修理ば何年も続け、神様ば守ってきたのせ。爺様が亡くなっても、その気持ちは家族に代々、受け継がれで、石神様を「守り神」として大切に守ってきたんだど。

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 爺様も亡くなり家も代変わりしても、ずっと部落の人達が守ってきたこの石神様を、向山部落の守護神(産土神、うぶすながみ)として、昭和十九年八月二十日、当時向山部落に住んでおられた袴田健三さんが、今の神社のある場所さ正式にお堂を建てられ、百石町の村井惣次郎氏の屋敷神様の御神体を譲り受けられ安置されたということだ。それが今の「若宮八幡宮様」だと伝えられている。
 「若宮」というのは、ある神社の「神霊」を分けて祀った神社のこと。「八幡様」は、もともと農業の神様だ。だから「若宮八幡宮」という「御名(おんな)」は、ぴったりの大変よい「御名」だよ。本当に有難いことだと部落の人達大喜びして、毎月十五日を縁日にして、お堂を開けて「何事もなく過ごせたこと」に感謝して、手料理ば作って御供えし、そのあとみんなで楽しくなごやかに、神様にも、それから料理ば作ってくれる部落の「かっちゃ」だの「ばっちゃ」達さ、感謝しながら食べるのよ。それが今でもずっと続いでいるのよ。他の部落の人達さも自慢できるほど「いい風習」だど、俺は思っている。

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 あれは何年前のことだったがなぁ。台風がやってきてよ。八幡様のお堂の屋根が飛ばされでしまったことがあった。よぐ調べでみだら、屋根だげでなぐ、壁板も飛ばされ、雨漏りもひどがった。何しろ建てでがら、かなりの年数はたってるし、建物は老朽化してるし、風雨や雪の害による腐食もかなり進んで「これだば神様さ申し訳ねんだじゃ。何とかしねば」と、部落の人達と相談して、昭和五十七年三月に、この俺(田中恒三郎)が部落総会に「八幡宮の再建」を提案したのよ。総会の時は「金もかがるごどだし、もし反対する人が多がったらどうすべな。もし再建でぎねぇば、せっかぐの御神体ば、まだ昔の石神様のように野ざらしにするごどになる」と思って、部落の人達に心こめで話した。そしたら、なんと部落の人達「皆で寄付ば集めで、町さも働きかけで、やるべしよ。おら達ば守ってくれる神様のために」と、協力をしてくれるごどになった。
 そして「八幡宮建設委員会」が組織されて、いろいろと話し合いの結果、その年の八月二日、町と部落会との用地の貸借契約と、神社建立の許可も認められ、九月十五日には、おら方の家で社殿建設の入札が行われた。業者の「小泉大工」が、総額三百九十万円で落札した。これでやっと、新しい社殿が出来ると思ったら、肩から力がぬげでいぐよんてあったじゃ。そして中沢長助さんによって、地鎮祭が厳かに行われだ。今でもあの時の「祓いたまえー、清めたまえー」という、御祓いの祝詞(のりと)が耳さ残っている。

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 恒三郎じっちゃは、遠くば見るような穏やかな顔つきで、桜の花さ囲まれた神社ば眺めた。
 「じっちゃ、よがったなぁ。まんず、酒こ、飲みながら続き、おしえでけろ」
 じっちゃは、杯を傾けながら、話ば続けだ。
 工事は順調に進み、十月九日、秋晴れの日、社殿の柱立てが無事終わった。何よりも喜ばしい事は、工事が進行していくうちに、寄付を申し出る協力者がどんどん増え、心配された資金も総額六百四十八万九千円を超えた。お蔭様で本殿建立の目処がつき、さらに鳥居の新築、狛犬の安置も十二月五日に完成したんだじゃ。鳥居は大昔から、神様の住む所と人間の住む俗界を分けるものとして建てられるもので、あの朱色は「命の躍動」と「災い」を防ぐと言われている。見なが、おらほの鳥居。あの色鮮やかな色はおらどの命を守り、災いを防いでいるんだよ。有難でなぁ。

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 そしてとうとう、御神体の新社殿への移転安置も終わり、十二月十一日、小春日のいい天気の日、気比神社の宮司ばお迎えして「入魂式」をしめやかに行った。そして、部落民、業者、役員、寄進者達の献身的な努力のおかげで、十二月二十一日をもって、一期工事が完成したんだ。あの沢の中の石神様もこれで安心と、思ったら涙こ、流れで流れで困ってしまったじゃ。
 新しい年の初め、部落の人達、皆して喜んで元旦参りに出かけた。皆にこにこしていい顔でお参りしたもんだ。どうぞ、今年もいい年でありますように。八幡様、おら達を守ってください。そんな声が新社殿さ落ち着いた神様さ、きっと届いだど思う。

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 明けて五十八年、雪解けを待って、桜やつつじなどの木を植え、参道を舗装した。東屋、トイレ、記念碑などの建設や設置。石灯籠の奉納。境内の環境整備など、全行程を終了。八月十五日、公園内で盛大に落成祝賀会が行われたんだよ。あの時のあの嬉しさ、喜び。今でも体の置くからこみ上げでくる。あの時に飲んだ酒こ、生涯で一番うめぇ酒こだった。部落の人達もみんないい顔していだったなぁ。工事が終了したので「建設委員会」を解散し、同じメンバーで「神社管理委員会」と名前を変えて、神社の管理運営にあたることにした。今、このメンバーがいろいろと管理してくれているので、この神社、いつもきれいに掃除されでいるし、その人達のおばあさんや息子、嫁さんや子ども達に神社さ供える料理を作ってもらったり、何かの集会の時は世話してもらっている。

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 平成さなっても、トイレを改築したり、社殿の一部を増築したり、部落の人達みんなに協力してもらっている。みんなの「心」が一つになれるのも、この八幡様が、おら達みんなを見守っているもんだ。というごどど、それからこの「若宮八幡宮」をこれまでにしていぐに、実に多くの部落の人達や、その他多くの人達のおかげだということ。子ども達にも孫達にも、伝えでいがねばならねぇど思っている。じっちゃの話、長がったけど、よぐ聞いでくれだなぁ。
 さぁさ、八幡様と一緒に、花見の料理、御馳走になるべし。
 車座になったみんなは、「神社創建」の話に耳を傾け、杯を交わしながら、今年も見事に咲いた桜を見上げると、満開の桜を喜んでいる「八幡様」の姿が、桜の花の中さ見えたような気がした。



―あとがき―

 地域のことも神社や民俗信仰、おいらせ町の歴史もろくに知らないのに、部落の方々の強い思いと信仰心の強さに惹かれて、引き受けてしまいました。資料からは十分読み取れない部分は、勝手に想像を膨らませましたので、事実とは違う部分もあるかと思いますが、お許しください。「一つの物語」としてお読みくだされば幸いに存じます。 
     矢崎



●物語作成  矢崎ゆり(おいらせむかしっこの会)
●資料提供  成田いつ子(向山)
          下田町史
          「お寺と神社」(柴田謙介著・河出出版)
          「大辞林」(三省堂)

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コメント(18件)

内 容 ニックネーム/日時
 物語と言いながらも、事実にもとづいたものであり、先人の神社建立までの苦労が手に取るようにわかりました。
 昨年暮れ、私ども町内会集会所も新築されましたが、その完成時期(12月末)にしろ、その経緯にしろ(寄付金が善意のもと集まってきた)、何か似ているような気がしてならないのは私だけが感じていることだろうか。
 でも、向山人の何かあるときは、一致団結するというのは、昔も今も、代々受け継がれているように思え、ほのぼのとした気持ちになった。
N会長
2012/08/30 08:33
会長おはようございます。昨晩の役員会の後、成田さんがわざわあ冊子を届けてくれました。一読してそのすごさを感じて、一時間の作業でブログアップしました。向山人ならぜひ知ってほしい史実です。まるで集会所新築の時のように感じました。敬老会でもしよかったらお披露目してみないかと言ったら、成田さんもやってみようかと言ってました。
田吾作
2012/08/30 09:52
おはようございます。
コピーして、みんなにみてもらいたい資料です。
集会所や駅等に置いてもいいのでは。
30年後には<向山集会所建設物語>ができるかもしれませんね。
コジー
2012/08/30 10:11
コジーさんこんにちは。コメントありがとうございます。集会所y駅などに置こうという話、昨晩の役員会でもそんな話になりました。向山人なら知っておかなかればならない歴史です。複製して置きます。成田さんもそうなったらスゴくうれしいといってました。

作者の矢崎ゆりさんは、おいらせ町の歴史を物語や紙芝居にして、読み聞かせをする活動をしています。住吉在住で、下田小学校校長時代に「本村鶏舞」の物語執筆から20年近く活動を続けています。成田さんは矢崎さんと一緒に活躍しているわけです。教員時代に培ったノウハウを、今こうして地域に還元していることに敬服します。
M局長
2012/08/30 12:41
こんにちは。
コメント失礼します。

向山に住み何も知らないまま5年程がたちました。娘が下田小学校に通い始め、大人が汗を流して舞う姿「本村鶏舞」や獅子舞、太鼓を見て感動しました。
笛の音も初めて聞き、心に響きました。感動や感謝に出会えず、繋がりがないというのは寂しいものです。


立派な神社の姿を写真で初めて見ました。訪れて、皆様の努力 自然に感謝したいと思います。
κ
2012/08/30 15:19
Kさんこんばんは。コメントありがとうございます。

物語に登場する語り部のじいさん、田中恒三郎さんは本当に向山に住んでいた人です。10年ちょっと前、88歳で他界した元国鉄員です。恒三郎さんの下で、五郎さん、相坂さん、飯出さんやうちのじいさんは手足になって、町内会活動やら神社復興を成し遂げました。今から30年も前の話です。恒三郎さんはよく家に遊びに来ていましたから、子どもの頃からかわいがってもらいました。鉄道工夫らしくもともとは酒大好きなじいちゃんでしたが、心臓バイパス手術してからは大好きな酒を絶ち、いつもサイダー飲んでいました。

恒三郎さんも亡くなり、弟子的存在だった五郎さんたちも今や長老様となってしまいました。こうした先人たちの熱い思いを、うちら若い者がしっかり知っておかないとなりません。そうでなければ歴史が分断します。歴史が分断してしまえば、もはやおなじ「民族」たりえなくなっちゃいます。向山人として、その土地のことはやっぱり知っておきたいものです。
M局長
2012/08/30 21:05
Kさんコメントに追記です。

 Kさんの子ども達は下田小学校に通ってますね。下田小学校のある本村と、うちらの住んでいる向山は、切っても切れない関係にあります。

 今向山に住んでいる人で、堤、蛯名、磯沼、田中…そんな苗字の人は、少なからず本村地区から移り住んできた人々の末裔です。戦前、すでに田んぼの開墾が進んでいた本村では、農家の次男坊、三男坊に分けるだけの耕地はありませんでした。ですから彼らは土地を求めて、当時原野状態だった向山を開墾して、畑やら田んぼにしていきました。今でも本村の人のような苗字が多いのはその証拠ですし、本村の農家たちでも向山に畑が多いのはそういう理由です。

 彼らが開墾した場所は「北ノ平(きたのたい)」と呼ばれました。本村から見たら、確かに「北のほうに造った平野」でしょうね。今このネーミングはなかなか聞くことはないですが、その名残は若宮八幡宮の記念碑に「北ノ平」としっかり明記されています。あとKさんのお宅から向山駅方面に続く道路は、今でも「北ノ平線」という町道の名前として残っています。

 ついでに物語の中に「後谷地」という名前も出てきます。私達の住んでいる家を通っているカワヨの通りの正式な名前は、町道向山・後谷地線です。
M局長
2012/08/30 21:12
皆さんこんばんは。
この記事を厳かな気持ちで拝見致しました。
私が向山に住んでいた頃、特に子供時代若宮八幡宮にはまだ馴染みがなく、気比神社へのお参りやお祭りが常でした。通っていた学校から近かったし、神社やお参り・初詣と言えば気比神社…だったのです。その昔農耕には欠かせなかった牛・馬の神様を祀った神社で、農家ではなくともウチを含めそれまでは地域の守り神でした。

若宮八幡宮のいわれをこの度目にし、不思議なご縁と向山に住む人々の守り神と信仰され、御利益や心の安定を頂きつつ今現在お住まいの人達の生活の、ひとつの支えになっているのでしょう。
地域の神様が御守り下さっていること、不可侵なことを語り継いで行き、改めて「生かされ生きる」をいずれ個々に思うこと(日や瞬間)があれば素晴らしいと思います。
元・向山人
2012/08/30 22:50
元向山人さんこんばんは。コメントありがとうございます。

豊原で畜産やってる人なら、おそらく家畜の守り神は気比神社でしょうね。豊原、木ノ下だけでなく、県南一帯から畜産農家が集まるし、ルーツは室町時代とか平安時代とかまでさかのぼるほど由緒ある神社なのですから。

向山の若宮八幡宮みたいな「ムラの神社」は、そうした古くからの信仰というより、まさに「ムラの守り神」として、村人たちが祠を建て、拝んできたものです。由緒正しい神様というよりも、元向山人さんがおっしゃるような「生活の支え」といったほうがよいのかもしれませんね。

それにしても、石でも木でも、自然界にあるようなさまざまなものを神様としてみつめられる日本人の心は、改めてすごいと思うし、その感覚自体を誇れるなと思います。西洋や中東の宗教は「一神教」で、神になる主体があります。でも日本人は昔から森羅万象、人間を取り囲む全てのものに、神ではなく「カミ」が宿ると信じ、畏敬の念を持って対峙してきました。ギリシャ神話には100もの神がいるといいますが、日本のカミはそれとは比較にならない八百万(やおよろず)のカミですからね。

この物語を書かれた矢崎さんは、物語執筆だけでなく、紙芝居作りの名人です。情報提供した成田さんと電話で話をしましたら「今回は大人向けだけど、矢崎先生に時間を見つけてもらって、今度は子供向けの紙芝居を作ってもらいたい」と話してました。子どもたちまで広く地域の史実を楽しく知ってもらえたら、この物語の語り部役をしている田中恒三郎さんもよろこんでくれるでしょうね。
M局長
2012/08/31 00:08
本村に少なからずルーツのあるEBEEさん、D介さんにはこの若宮八幡宮物語はどのように写るでしょうか?
田吾作
2012/08/31 00:45
Kさんも元向山人さんも、原文のままで載せたこのお話、分かりますよね。南部なまり丸出しですが、やっぱり標準語訳だとこの味は出ないものですからね。
M局長
2012/08/31 00:51
おはようございます。
南部なまりでもわかります。
生きた言葉 そのままの方がいいと思います。

働き方や 人の動きが変わり 時代は変わっていきますが、土地を愛する者達 守るべき者が、土地を守り継承する事がとても大切ですね。
日々の努力 保存会の皆様に感謝いたします。

下田小学校で以前
次男三男の農地の開墾の歴史の発表がありましたが、M局長の言葉で色々と繋がり理解できました。ありがとうございます。

κ
2012/08/31 08:00
M局長さん、こんばんは。
気比神社のお祭りでは、牛・馬の絵が売られていました。おそらく、買い求めた方はそれを飾り、熊手やお札などと共に大事にされていたのだろうと思います。

日本人が古来から畏れ敬って来た神々は、農耕民族の「自然」に対する気持ちの表れ、全てだと思います。この島国で、独自に文化や言葉が発生したのも雄大な自然に振り回され、苦しみながらも畏れ敬い、愛着ゆえ豊かな表現方法が発達し、外国語では表現できない言葉が多いですよね。日本語そのまま外国で通用する言葉もあるほどです。
神は唯一との宗教からしたら、八百万(やおろず)の神など有り得ないらしいですが、自然と共に暮らして来た日本人には、やはり信仰する対象は無限だと言うことかもしれません。
日本人として生まれ、自然には逆らえないことを知っている以上、自然=神様が宿っている…こともまた、繊細ながら揺るぎない気持ちの大切な部分だと思います。
元・向山人
2012/08/31 22:32
元向山人さんこんばんは。コメントありがとうございます。
日本の国にずっとずっと昔から根付いた神道は、森羅万象、八百万の神が宿っているというものです。自然物だけじゃなく、死者が神になることだってありますよね。国家に尽くした英霊は、神社に神として祀られます。生きている人そのものを神に祀ることだってあります。野球にまで「代打の神様」「抑えの守護神」なんていうくらいだから、日本人の生活にずいぶんと神道の影響が根付いているものです。

偉大なもの、珍しいもの、役立つもの、地域ならではのもの、畏れるもの、敬うもの・・・そうしたものひとつひとつに紙を宿らせて信仰するのは、日本人独特のものらしいです。だから外から入ってくる異質なものに対しても許容できるし、それを時間をかけて日本流に仕立てていけます。神道は宗教じゃなく、土地や人によって違いがある「信仰」です。多神教ならではの寛容さ、柔軟さは、キリスト教やイスラム教教のような絶対神をあがめ、経典を持つ宗教にはないでしょう。はたまた共産主義国家のように無神をモチーフにした寒々しい唯物論とも違います。こうした国家で昔も今も続いている宗教紛争やら大静粛といったことが、私たちの日本だとほとんどありません。なんたって八百万の神を信じられるのですから、争うこともないのでしょうね。

木陰の下で、木漏れ日がやんわりとさしこむ。森の中で爽やかな風がほほを撫でていく。地平線から朝日が真っ赤になって昇ってくる。木の根元から涌き出る清水の音が響く。そんな現象に出くわしたとき、心を落ち着けながら、五感を研ぎ澄まして向かい合っていたいと思ったことは、きっと多くの人があるんじゃないかと思います。そうした現象にさえ神々しさを感じられるのは、すべてのものに神を宿らせ信仰してきた日本人の血と記憶が、今の私たちの体のなかにもちゃんと流れているからだと信じたくなります。
M局長
2012/08/31 23:22
M局長さんの感性に、ものすごく共感しました。

五感に訴える感性のもと、ひいては信仰に繋がる日本人の豊かさ・寛容。

日本人には当たり前の、亡くなった人は仏様。
が、人は死んでも神にはならない。仏?って?と言う意見に対し、神仏と言う表現にあるように同等に、崇め敬い畏れて来ました。

生まれた環境のもと、崇拝対象は、唯一の神だったり八百万の神だったりしても、畏怖する気持ちは到底人間には及ばない、人知を超えたものであることは、共通しているのでしょうか。
元・向山人
2012/09/01 00:07
なぜだか涙をうかべて拝読しました。
じっちゃの横でネクター飲みながら話を聞いてる孫の気分になりました。
小さい頃たがら、話の意味も時代背景も、繋がりもわからず、『じっちゃ、また昔話してら…』としか思えなかったあの頃。
いま、若輩ながら歳を重ねてきた今日この頃ならある程度理解出来るのかなぁと思えるようになりました。
残念ながら、我が家のじっちゃもばっちゃも他界しました。

今、会話できたら、どんな話をしたんだべなぁ。
あれぇ、また涙っコ流れできたじゃ。
三沢の浪岡
2012/09/01 22:13
浪岡さんこんばんは。コメントありがとうございます。さすが長老様たちの気持ちがよく分かる浪岡さんらしいコメントですね。それにしてもネクターが出てくるあたりは感服です。今のネクターは昔のに比べるとドロリ感が薄めに思うんですよね。ネクターは濃厚でなくちゃと思うのはおいらだけかな?
M局長
2012/09/01 22:37
元向山人さんこんばんは。いつも深い考察交えたコメントありがとうございます。いつか仙台へ行ったら、居酒屋で飲みながらお話してみたいです(//∇//)
「神様のばちがあたる」など、神の存在が普通に道徳の教えになる・・・
「神仏」というように本来異質なものが融合できる・・・
「○○神」のように尊敬、崇拝できるものを自然と神という・・・
「あたしゃ神様だーよ」と志村がコントで使うほど神が慕われる・・・
自然界に畏怖の気持ちを忘れずに向き合い、いくつもの神を許容できるから、いくつもの神社があるのだし、それぞれを敬意を持って見れるんでしょうね。

明治時代に日本文化の魅力を感じたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本のことを「カミの国」「ヨミの国」と形容しています。死者に畏れ(怖がる恐れじゃなく)を抱き、森羅万象すべてのものに神を宿らせ崇拝する・・・今だってそうであるし、まっまさしくカミの国ですね。
政治の「政」は「まつりごと」とも読みます。政と祀りは一体で切り離せないものだったんですよね。政教分離と戦後に戦勝国から押し付けられた結果、神のバチがあたるような茶番が繰り返されて・・・
M局長
2012/09/02 00:14

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